鯛よし百番 第2話

歴史的建造物

大正を生きる女性


「あなた、ほんとうに外から来たのですか?」

座敷の障子越しに、雨の気配が薄く滲んでいた。
外の音は遠い。廊下の先で誰かが小さく笑う声さえ、薄い布で包まれたように柔らかい。
私は膝の上に手を置き、畳の目を眺めていた。

畳は新しい。青さが残っている。
現代の鯛よし百番で触れた畳の感触と、わずかに違う。
同じ「畳」でも、時代が違うと、香りの強さまで変わるのか。
そんなことを考えている自分が、妙に落ち着いていた。

私は今、大正にいる。

言葉にすると荒唐無稽なのに、
この建物の中では、荒唐無稽という感覚自体が薄まっていく。

目の前の女性 澄は、膝を揃えて座っていた。
背筋がまっすぐで、所作が静かだ。
髪はきっちりまとめられているのに、どこか柔らかさがある。
美しい、というより凛としているという印象が強い。

「外、というのは現代のこと?」

私がそう言うと、澄は小さく頷いた。

「わたしは、ここで働いております。
ここで生きています。だから、外の世界がよくわかりません」

一瞬、言葉を選んだ。
彼女のいう外は、この建物の外、という意味だけではない。
きっと、この時代に与えられた世界の境界線のことだ。

「あなたの時代は、どんなところですか?」

澄がそう尋ねたとき、
私は胸の奥に軽い痛みを覚えた。

便利で、自由で、速い。
でも、その速さに置いていかれて、
誰もが自分の居場所を探し続けている。

それを、そのまま伝えるべきなのか。

「白い光が多いです」

結局、私はそう答えた。
澄は少し目を見開き、そして微笑む。

「白い光。こちらは、灯りが影を作ります。
影があるから、人は落ち着けるのかもしれませんね」

その言葉に、私は息を呑んだ。

建築の世界では、光と影は演出だ。
明暗のグラデーションは、空間を奥行きあるものにする。
でも澄は、それを心に結びつけていた。

「澄さんは、この建物が好きなんですね」

私が言うと、
澄は少しだけ視線を落とした。

「好き、というよりここしか知らないのです。
でも、ここは美しいでしょう?」

障子越しの灯りが、彼女の頬に薄い影を落とした。
その影が、まるで彼女の心の奥にある事情を隠しているみたいで、
私はどうしても目を逸らせなかった。

「ここは、客人をもてなすための建物です。
けれど部屋ごとに、まるで別の世界のようでしょう?」

澄は立ち上がり、私に手を差し伸べた。

「少し、歩きませんか。
あなたのような方にこそ、見ていただきたい場所があるのです」

私は、迷うふりをして、その手を取った。

触れた瞬間、指先から熱が伝わった。
驚くほど、現実の温度だった。


廊下は、やはり真っ直ぐではない。
わずかに曲がり、視線が区切られ、
次の空間が少しずつめくられていくような構成だ。

「廊下が曲がっているのは、理由があるんですか?」

澄は、行灯の下で足を止めた。

「ええ。客人は、ここへ来る前に、外で何かを背負っています。
家のこと、仕事のこと、世間のこと。
真っ直ぐだと、それを抱えたまま入ってしまうでしょう?」

私は背筋が震えた。

「曲がることで、忘れさせる?」

「忘れさせる、というより置いていくのです。
ここでだけは、別の人になれるように」

それは、遊郭建築の思想そのものだった。
現代の価値観で単純に肯定できるものではない。
だが建築として見れば、
人間の心理を設計し尽くした装置だ。

そして、その装置の中で、
澄は生きている。

「ここは」

私が見上げた先にあったのは、欄間だった。
彫刻が繊細で、季節の草花が浮かび上がっている。

「季節ごとに、違うんですか?」

「ええ。見ていると、心が移ろうでしょう?
季節が変われば、人の気持ちも変わります。
だから、この建物は、変わるための場所でもあるのです」

廊下の曲がり角。
ふいに、別の座敷から笑い声が漏れた。
澄はその声に、ほんの一瞬だけ眉を曇らせる。

私は見逃さなかった。

澄は、自由に笑えない。

そう思った瞬間、胸が苦しくなった。

「澄さんはここで、幸せですか?」

質問が口をついて出た。
澄は驚いたように立ち止まり、
それから、少し困ったように笑った。

「あなたの時代の幸せが、わたしにはわかりません。
でもこの建物が残るなら、
誰かがここで笑うなら、それで良いのかもしれませんね」

その言葉が、妙に大人びていて、
私はかえって痛くなった。

澄は、人生を諦めているのではない。
ただ、自分の置かれた状況を理解し、
その中で、誰かの時間を守っている。

私は、彼女の横顔を見つめた。
行灯の灯りが、彼女の睫毛に影を落とす。
影は細く、そして美しかった。


「こちらです」

澄が案内したのは、奥の座敷だった。
襖を開けた瞬間、空気が変わる。

天井が高い。
意匠が華やかだ。
漆や金の装飾が、灯りを受けて静かに輝く。

「すごい」

私は、素直にそう言った。

「ここは、特別なお客様が使うお部屋です。
特別な夜のために、特別な天井がある」

澄はそう言って、天井を見上げた。

「あなたは、建築のお仕事なのでしょう?
なら、わかりますよね。
天井は、その部屋の心です」

胸が熱くなった。

建築を、こんな言葉で語る人を、私は初めて見た。
設計者でもなく、研究者でもなく、
この建物の中で生きている人だけが持つ言葉。

「澄さんの言う通りだ」

私が呟くと、澄は少し笑った。

「あなた、優しいですね。
わたしの言葉を、笑わない」

私は笑えなかった。
笑えるはずがない。

この人の言葉は、
建築を越えて、人の生き方を語っている。

そして、その生き方が、あまりにも切ない。


その夜、座敷に戻ったとき、
澄は少しだけ距離を詰めて座った。

畳一枚分。
それだけで、胸が騒ぐ。

「あなたのお名前を、まだ聞いていませんでした」

澄がそう言う。
私は名乗った。
彼女はそれを繰り返し、
まるで大切な言葉を口の中で確かめるように呟いた。

「覚えておきます」

たったそれだけの言葉が、
胸に深く刺さった。

私は、澄の横顔を見て、
何かを言おうとして、言えなかった。

この出会いは、偶然じゃない。
でも、必然だとも言えない。

建築がつないだ時間の隙間に、
私はたまたま落ちてきただけなのかもしれない。

それでも
彼女を、放っておけなかった。


恋の芽生え ― 「居場所としての建築」と、触れられない距離

翌日も、私は鯛よし百番へ向かった。
現代の私は、現代の時間を生きているはずなのに、
頭の中は昨夜の座敷の匂いで満ちていた。

仕事中も、図面の線がどこか遠い。
代わりに思い浮かぶのは、
行灯の灯りと、澄の声。

影があるから、人は落ち着ける。

それは、ただの感想ではなく、
彼女の生き方そのものだった。

夜。
私は店の前に立ち、深呼吸した。
玄関をくぐる。

空気が変わる。

私は、わざとゆっくり歩いた。
この廊下の曲がり方。
視線の切れ。
次の空間に入る前の「間」。

現代の店であっても、
この建築は同じように心理を操作してくる。

行灯の下。
私は、彼女を探した。

いた。

澄は、昨日と同じ場所に立っていた。
目が合った瞬間、胸の奥が熱くなる。

「また来てくださったのですね」

澄の声は、嬉しさを隠そうとしていた。
けれど、隠しきれていない。

「来てしまった」

それだけで、十分だった。


座敷に入る。
畳に座る。
障子越しの灯りが、今日も柔らかい。

澄は、お茶を淹れながら言った。

「あなたの時代では、こういう場所は少ないのですか?」

私は少し考え、答えた。

「あるけど残すのが難しい。
土地が高いとか、維持費がかかるとか、
合理性がないって言われたり」

澄は、ふっと笑った。

「合理性。
合理的であることは、良いことですか?」

問いが、鋭い。

私は答えに詰まった。
設計の現場では、合理性は正義だ。
だが、合理的な建築が、人を幸せにするとは限らない。

「必要なことだけど、
それだけだと、心が置いていかれる」

澄は頷き、障子を指先でなぞった。

「この障子は、光を柔らかくします。
柔らかい光は、人を守ります。
わたしは、そう思います」

その言葉が、胸の奥に沈んだ。

守る。
建築は、人を守る。

私は、建築家として、
その本質を忘れかけていたのかもしれない。


会話が途切れたとき、
澄が小さく息を吸った。

「あなたは、戻るのですか」

唐突だった。
だが、彼女はずっとそれを聞きたかったのだろう。

「戻る?」

「あなたの時代へ。
わたしは、あなたの時代へ行けません。
あなたは、こちらに留まれません」

言葉が、畳に落ちた。

私は、視線を落とした。
畳の目はまっすぐで、逃げ道がない。

「わからない」

正直に言った。

澄は、少しだけ笑った。
泣きそうな笑い方だった。

「わからない、という言葉は、
優しいですね。
すぐにいなくなると言われるより、ずっと」

その続きは、言わなかった。

私は、衝動的に言いかけた。

「澄さん」

しかし、言葉が続かない。
好きだ、と言ったところで、どうなる。
連れていく、と言ったところで、どうする。

私は、ただ、彼女の名前を呼んだ。

「澄さん」

それだけで、
澄の目が少し潤んだ。


その夜、帰り際。
廊下で澄が言った。

「あなたに、見せたいものがあります」

連れていかれた先は、
二階へ上がる階段の手前だった。

古い木の階段。
磨かれた手すり。
階段の幅は広くない。
だが、足を踏み出すと、不思議な安心感がある。

「この階段は、上へ行くためだけではありません」

澄はそう言った。

「下へ降りるとき、
人は少しだけ現実に戻れます。
上へ行くとき、
人は少しだけ夢に近づけます」

私は、喉が詰まった。

夢に近づく。
それは、この建物にいるときの感覚そのものだった。

二階の廊下。
窓の外に、夜の闇。

澄は、窓の格子に指を触れ、言った。

「わたしは、ここから外を見ます。
外に出ることはできません。
でも、外を見ることはできます」

その声は静かで、
それが余計に胸を締めつけた。

「澄さん」

私は、手を伸ばした。
触れたかった。
彼女の手を、肩を、確かめたかった。

けれど
指先が、空気に止まった。

触れた瞬間、
この均衡が壊れてしまう気がした。

澄は、私の手を見て、
小さく首を振った。

「今はまだ」

その言葉が、
拒絶ではなく、祈りに聞こえた。


その帰り道、
私は現代の夜に戻った。

街の光は白く、速い。
スマートフォンの通知が鳴る。
駅のアナウンスが機械の声で流れる。

なのに、私の中には、
行灯の橙色が残っていた。

影があるから、人は落ち着ける。
柔らかい光は、人を守る。

澄の言葉が、
私の胸の中で、何度も反響していた。

そして、私は理解し始めていた。

これは、恋だ。

ただの幻想じゃない。
建築が見せた夢でもない。

私は、澄という人に、
確かに心を奪われている。

でも
その恋は、最初から届かない距離を含んでいる。

触れられない距離。
時代という壁。
この建築が守っているのは、
居場所だけではない。

私たちの別れすら、
最初から設計されている気がした。

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