鯛よし百番 第4話

歴史的建造物

現代 ― 残された建築、残された想い


それからしばらく、私はあの店に足を向けられずにいた。

時間が解決する、という言葉は、
ときに人を救い、ときに残酷だ。
解決する前に、心の奥に沈殿するものがある。

仕事は忙しかった。
現代の建築は、相変わらず速く、合理的で、
私を置いて先に進んでいく。

それでも、ふとした瞬間に、
橙色の灯りが頭をよぎる。

影があるから、人は落ち着ける。

澄の声が、
どこからともなく胸の内で響く。

ある休日の夕方、
私は無意識のまま電車に乗っていた。
気づいたときには、
あの路地の入口に立っていた。

鯛よし百番。

外観は、変わらない。
木造二階建て。
低い屋根。
奥へと誘う玄関。

だが、私の中は、
もう同じではなかった。

玄関をくぐる。
空気が変わる。

それは、
かつて感じた切り離しとは、少し違っていた。

外の世界を置いていく、というより、
過去の自分が、そっと後ろに残る感覚。

廊下は、相変わらず曲がっている。
視線は分断され、
先の空間が一気には見えない。

それが、
今はありがたかった。

一気に思い出してしまわないように。
少しずつ、
記憶と向き合えるように。

行灯の下で、
私は立ち止まった。

あの日、澄が立っていた場所。
今は、誰もいない。

それでも、
空間は確かに覚えている。

人が立っていた気配。
声が交わされた余白。
言えなかった言葉の行き場。

建築は、
人の不在を否定しない。

ただ、
そこに「あそび」を残す。

私は、座敷へ案内された。
格天井の部屋。

天井を見上げた瞬間、
胸が詰まった。

同じだ。
あの夜と、同じ意匠。
同じ高さ。
同じ陰影。

「残っている」

思わず、声に出た。

建築は、
人の代わりに、
時間を生き続ける。

澄はいない。
けれど、
彼女が見上げていた天井は、
今もここにある。

それだけで、
救われる気がした。


料理が運ばれてきた。
味は、正直、よく覚えていない。

ただ、
器の配置、
間の取り方、
給仕の所作。

すべてが、
「急がせない」ようにできている。

現代の飲食店は、
回転率を重視する。
時間は、管理されるものだ。

だが、ここでは違う。

時間は、
委ねられるものだ。

私は、ゆっくりと箸を置き、
再び廊下を歩いた。

二階へ続く階段。
磨かれた手すり。

澄が言っていた言葉を、
思い出す。

上へ行くとき、人は夢に近づく。

私は、静かに階段を上った。

二階の廊下。
窓の外は、夕暮れ。

格子越しに、
街の灯りが見える。

現代の光だ。
白く、速い光。

それでも、
この建物を通して見ると、
どこか柔らかい。

「見てる?」

誰にともなく、そう呟いた。

答えは、返ってこない。

だが、
返ってこないことが、
この物語の終わりを示していた。


この場所を、あなたへ

帰り際、
私は玄関で一度、振り返った。

廊下の奥。
行灯の橙色。

そこに、
もう誰も立っていないことを、
私は知っている。

それでも、
目を逸らせなかった。

建築は、
人の人生を背負わない。
ただ、
人が通り過ぎた痕跡を、
否定せずに受け止める。

だからこそ、
人は、建築に救われる。

澄は、
この建物の中で生き、
この建物の中で、
私と出会った。

それは、
偶然かもしれない。
錯覚かもしれない。

けれど、
私の人生にとっては、
確かな出来事だった。

外に出ると、
夜の空気が冷たかった。

振り返ると、
鯛よし百番は、
相変わらず静かに佇んでいる。

何も語らない。
何も主張しない。

ただ、
ここにある。

それで、いいのだ。

私は、ようやく理解した。

澄が守っていたもの。
それは、
誰かが自分の時間を取り戻すための、余白だった。

恋は、終わった。
言葉も、触れ合いも、
最後まで届かなかった。

けれど、
建築は残った。

この場所がある限り、
誰かがまた、
ここで足を止める。

違和感を覚え、
時間の密度に気づき、
ふと、
胸の奥を揺らされる。

それでいい。

もし、あなたが
この場所を訪れることがあれば
どうか、少しだけ、
立ち止まってほしい。

廊下の曲がり角で。
行灯の下で。
天井を見上げる、その一瞬で。

もしかしたら、
あなたにも、
残された想いが
そっと触れてくるかもしれない。

切ないけれど、
美しい余韻とともに。

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