堂崎教会 第1話

歴史的建造物

海風に導かれて ― 福江島という入口


福江港にフェリーが静かに着いた瞬間、私は思わず深く息を吸い込んだ。
潮の匂いが、胸の奥まで流れ込んでくる。

都会で暮らしていると、空気の匂いを意識することなんて、ほとんどない。
でもここでは、海と風と、遠い記憶の匂いが、はっきりと存在していた。

静か

隣でそう呟いたのは祐介だった。
三十代半ば。建築設計事務所で働いている、少し口数の少ない人。

仕事柄、国内外の建築をよく見てきたはずなのに、今の彼の表情は、どこか緊張しているようにも、子どものようにも見えた。

「音が少ないね。車の音も、広告の音も」

私は頷いた。
この静けさは、単なる田舎の静けさじゃない。
何か、長い時間が折り重なったような、そんな重みを含んでいる。


私が福江島に来た理由は、半分は仕事、半分は私的な事情だった。

数か月前、祖母が亡くなった。
葬儀のあと、母がぽつりと私に言った言葉が、ずっと胸に残っていた。

「おばあちゃんね、昔、五島の話をよくしてたの。
あそこには祈りが残っているって」

私は、それまで自分の家系に宗教の話があるなんて、ほとんど意識したことがなかった。
でも祖母の引き出しの奥から、小さな木彫りの像が見つかったとき、母の表情が一瞬、変わったのを覚えている。

それが、マリア像だったと知ったのは、あとになってからだった。


堂崎教会へ向かう道

レンタカーで島の海岸線を走る。
右手には、どこまでも続く青い海。
左手には、低い山と、ぽつぽつと建つ集落。

信号も少なく、道も静か。

「五島列島って、教会が多いんだよね」
私がそう言うと、祐介は少し嬉しそうに頷いた。

「うん。日本のカトリック教会の聖地みたいな場所だよ。
特に福江島は、隠れキリシタンの歴史が色濃く残ってる」

隠れキリシタン。

その言葉を聞くだけで、胸の奥が少しだけざわついた。

しばらく走ると、視界の先に、赤茶色の建物が小さく現れた。

「あれ?」

私が指をさすと、祐介がゆっくりと頷く。

「見えてきたね。あれが堂崎教会」

海に向かって、ぽつんと佇む赤レンガの建物。
思っていたよりも、ずっと控えめ。

高い塔があるわけでもない。
派手な装飾もない。
ただ、静かに、そこに立っている。

でも不思議と、目が離れなかった。

「主張しない建築って強い」

祐介が、独り言のように言った。

「目立たなくても、そこに理由があると、人は引き寄せられる」

その言葉に、私は小さく頷いた。

祖母も、きっとこの建物に、何かを見ていたのだろう。


赤レンガの前で立ち止まる

駐車場に車を停め、ゆっくりと歩く。
近づくほど、煉瓦の色合いの違いがはっきり分かってくる。

同じ赤じゃない。
少し黒ずんだもの、明るいもの、ところどころ欠けているもの。

「一つひとつ、焼き方が違うんだ」

祐介が、自然に解説を始める。

「当時の煉瓦は手作業だから、完全に均一にはならない。
でも、それがこの建築の表情になる」

私は、そっと壁に手を当てた。
ひんやりと冷たい。
でも、どこか温もりが残っている気がした。

「ここ、明治41年。1908年に建てられた教会なんだ」

その年号を聞いた瞬間、胸の奥が小さく鳴った。

明治の終わり。
禁教令が解かれて、ようやくキリスト教を公に信じられるようになった時代。

つまり、この教会は、長い沈黙のあとに、初めて声を出せる場所として生まれた建築だった。

私は、祖母のことを思い出していた。

あの人は、多くを語らなかった。
祈りの話も、信仰の話も、ほとんどしなかった。

でも、仏壇の前で手を合わせる時間だけは、誰よりも長かった。

ここに来るまで、私はその意味を、深く考えたことがなかった。

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