鯛よし百番 第3話

歴史的建造物

すれ違い ― 出られない理由、戻らなければならない理由


雨が降り始めたのは、
私が店の暖簾をくぐってから、少し経った頃だった。

雨音は、この建物に入ると、奇妙な聞こえ方をする。
外では確かに降っているはずなのに、
瓦屋根と深い軒がそれを受け止め、
音だけを柔らかく内部へ落とす。

守られている。

そう感じた瞬間、
私は同時に「閉じ込められている」という感覚も覚えた。

廊下の奥、行灯の下に澄がいた。
今日は、いつもより静かな表情だった。

「お疲れですか?」

私がそう声をかけると、
澄は一瞬だけ、言葉を探すように視線を彷徨わせた。

「少し。今日は、お客様が多くて」

それだけの言葉なのに、
私は胸がざわついた。

忙しい。
それは、彼女がこの場所に縛られている証拠でもある。

座敷に入ると、
雨音が一段と近くなった。
障子越しに、黒く濡れた庭が見える。

澄は、いつもよりゆっくりとお茶を淹れた。
湯気が立ち上り、
それが灯りに溶ける。

「澄さん」

私が切り出すと、
彼女は小さく頷いた。

「今日は、少しだけ
ちゃんと話したいことがあります」

その言葉に、
私は覚悟のようなものを感じ取った。

「わたしは
この建物から、出られません」

静かな声だった。
だが、はっきりしていた。

「働いているから、という意味ではありません。
生き方としてです」

私は言葉を失った。

澄は、畳の目を見つめながら続ける。

「ここは、客人のための場所です。
わたしは、ここで誰かの時間を整える役目です。
自分の時間を、選ぶ立場ではありません」

それは、
大正という時代の現実だった。

女性が、自分の人生を自由に設計できない。
家、仕事、立場
すべてが、すでに決められている。

でも

私は思わず身を乗り出した。

「それは、澄さん自身の望みじゃない」

澄は、少しだけ微笑んだ。
諭すような、優しい笑みだった。

「望み、という言葉は、
叶えられる人のためのものかもしれません」

その言葉が、
胸に深く刺さった。

私は、建築の仕事をしている。
土地があれば、設計できる。
条件が整えば、形にできる。

けれど、
澄の人生には、
最初から「設計の余地」が与えられていない。

「あなたは、戻らなければならないのでしょう?」

澄が、静かに問いかけた。

私は、視線を逸らした。
否定できなかった。

現代の私は、
現代に属している。

仕事があり、
生活があり、
時間は前にしか進まない。

「戻らなきゃ、いけない」

その言葉を口にした瞬間、
胸の奥で何かが音を立てて崩れた。

澄は、目を閉じた。
ほんの一瞬、
祈るように。

「そうですよね」

それだけだった。

責めるでもなく、
引き留めるでもなく。

その沈黙が、
何よりも苦しかった。


その夜、
私たちはあまり言葉を交わさなかった。

建築の話も、
光や影の話も、
しなかった。

ただ、同じ空間にいる。
それだけで、
胸が締めつけられる。

廊下に出たとき、
雨音が強くなっていた。

澄は、行灯の下で立ち止まった。

「雨の日は
この建物が、いちばん自分らしくなるのです」

私が首を傾げると、
澄は天井を見上げた。

「音が、柔らかくなります。
外の世界が、遠くなります」

それは、
彼女自身のことを語っているようだった。

外の世界から切り離され、
ここに留まる存在。

私は、言いたかった。
連れていく、と。
一緒に出よう、と。

だが
言えなかった。

その言葉は、
あまりにも軽く、
あまりにも無責任に響く気がしたからだ。


別れ   雨の夜、何も言えなかった

その夜は、
ひどく雨が強かった。

現代に戻った私の部屋でも、
窓を叩く音が止まらなかった。

眠れなかった。
澄の言葉が、
何度も頭の中で反響する。

望み、という言葉は、叶えられる人のためのもの。

私は、
叶えられる側の人間だ。

それが、
罪のように感じられた。

翌日、
私は再び鯛よし百番を訪れた。

理由は、わからない。
会えば、余計につらくなるとわかっていた。
それでも、
行かなければならなかった。

廊下は、昨日と同じ。
行灯も、同じ場所にある。

だが
澄がいなかった。

胸が、ひやりとした。

座敷に通され、
しばらく待ったあと、
澄が現れた。

いつもより、
きちんとした装いだった。
どこか、儀式のような雰囲気。

「今日は」

私が声をかけると、
澄は小さく首を振った。

「今日は、
お別れをしなければなりません」

その言葉で、
すべてを悟った。

時間が、
終わりに向かっている。

「あなたが、ここに来られるのは
今夜が、最後です」

理由は、聞かなかった。
聞けば、引き止めてしまう。
聞けば、彼女を困らせてしまう。

「どうか
忘れないでください」

澄は、深く頭を下げた。

「この建物が、
あなたの時代でも、
誰かの居場所でありますように」

私は、声を出そうとした。
ありがとう、とか。
ごめん、とか。
好きだ、とか。

どれも、
間違っている気がした。

行灯の灯りが、揺れた。

雨音が、
一気に遠のいた。

視界が、
白く染まる。

触れられなかった。

その事実だけが、
胸に残った。


気づけば、
私は現代の廊下に立っていた。

同じ建築。
同じ天井。

だが、
澄はいない。

案内係の声が、遠くで響く。

「こちらは、大正期の意匠を」

私は、天井を見上げた。

雨音は、
もう聞こえなかった。

けれど、
胸の奥では、
まだ降り続いていた。

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