鯛よし百番 第1話

歴史的建造物

出会い ― 現代、時間の層に足を踏み入れた夜


大阪の夜は、どこか無機質だ。
ネオン、LED、ガラス張りのファサード。
どれも整然としていて、効率がいい。
けれど私は、いつの頃からか「建築に触れているのに、触れられていない」感覚を抱えていた。

その夜も、同じだった。

仕事帰り、同僚に誘われて向かったのは、
地図を見なければ辿り着けないような路地の奥。
周囲の街並みから、わずかに切り離された一角に、それはあった。

鯛よし百番。

木造二階建て。
低く構えた屋根。
格子越しに漏れる、橙色の灯り。

建築を仕事にしている私の目が、
一瞬で「これは違う」と判断した。

派手さはない。
だが、空間が人を迎え入れるための圧倒的な説得力がある。

玄関をくぐった瞬間、
外の音が遠のいた。

廊下は、あえて真っ直ぐではない。
視線は遮られ、次の空間が予測できない。
天井は低く、照明は柔らかい。

人は、ここで日常を置いていく。

そう設計されている。

その理解が脳裏をよぎった瞬間、
私は、行灯の下に立つ「彼女」を見た。

和装。
だが、現代のそれとは微妙に異なる佇まい。
帯の結び、髪のまとめ方、姿勢。

視線が合った瞬間、
胸の奥が、理由もなく軋んだ。

「あの、お席はこちらではありませんよ」

その声は、
騒がしい現代の音から切り離されたように、
静かに、しかし確かに私の内側に届いた。


その夜、私は「夢」を見た。
だが目覚めたあとも、その感触は消えなかった。

同じ廊下。
同じ行灯。
けれど、畳は新しく、人々は皆、和服姿だった。

歩く音、話す間合い、所作。
すべてが、生活としてそこにあった。

「ここは?」

問いかける私に、
隣にいた彼女は静かに答えた。

「大正十三年の、鯛よし百番でございます」

時間が、言葉として示された瞬間、
私は混乱よりも先に、納得していた。

この建築なら、あり得る。

廊下を進む。
曲がるたび、空間の性格が変わる。
座敷に入ると、天井意匠が一変する。

「部屋ごとに、天井も欄間も違うでしょう?」

彼女はそう言って、格天井を見上げた。

「お客様は、日常を忘れに来られるのです。
 同じ景色が続くと、現実を思い出してしまいますから」

その言葉に、私は息を呑んだ。

それは、
現代建築が「合理性」の名のもとに失ってきた思想だった。

「あなたは 不思議な服装ですね」

彼女の言葉に、私は苦笑した。

「あなたこそ、大正時代の人ですね」

そう言うと、
彼女は少し驚いたように目を見開き、
やがて静かに微笑んだ。

「ええ。私は、この建物と同じ時代を生きています」

その瞬間、私は理解した。

この場所は、
時間を保存する建築なのだ。

建築が残る理由。
人の記憶が重なり続ける理由。

そして
ここで出会ってしまった彼女と私が、
決して簡単には離れられない理由を。

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